1860年の1月19日(旧暦)、神奈川県浦賀を日米修好通商条約の批准書を交換するため遣米使節
団一行の乗るアメリカ軍艦ポーハタン号とその随伴艦として、咸臨丸が出港しました。
咸臨丸には艦長の勝海舟、木村摂津守、中浜万次郎(ジョン万次郎)、福澤諭吉ら百余名がいました。
また、技術アドバイザーとして乗船していたジョン・ブルック大尉他、アメリカ人乗員の助けを借りての航
海となりました。(豊里中のみなさんも歴史で知っている人々ですね。)
さて、咸臨丸の艦歴は、開国の嵐に揺れる江戸幕府の意によって、1857年にオランダのキンデルダイ
クで建造され、この太平洋を渡る偉業をなし遂げるなど、幕末の動乱期に日本近代化の歴史的象徴とし
て活躍しました。しかし、晩年は時代変革の渦に巻き込まれ、軍艦から北海道への物資運搬船となり数
奇な運命をたどります。戊辰戦争で敗れ北海道移住を余儀なくされた仙台藩白石片倉小十郎家臣団を
乗せた咸臨丸は、箱館経由で小樽に向かう途中、1871年9月20日、木古内町サラキ岬沖で座礁沈没し、
今も静かに眠っています。(現在は、復元されたものがあります。)
咸臨丸の14年の歴史は、まさに、新しい日本を創った人々をしっかりと支えたものでしたね。
注)「咸臨」とは、上に立つ者、下にいる者、君臣が心で感じ合い、一致協力して事に臨んでいくこと。
それぞれが悦(よろこ)んで応じ合い、正しい道を行き志を行う。そのゆえに吉なりとある。という意味。
これは「易経」からきていると言われています。
◇生徒のみなさん、歴史の裏側にはまだまだ知らないことがたくさんありますね。
いろいろなことを調べてみることで、発見がきっとありますよ。
(木古内町観光協会等のHPには、咸臨丸関連の行事が掲載されています。)