今から100年前の1923(大正12)年9月1日の正午近くマグニチュード7.9の大地震が関東地方を襲いました。直後に発生した火災と津波などにより約10万人の犠牲者を出した、関東大震災が発生しました。栄一翁は震災当時、すでに83歳でした。
埼玉に戻るように勧める息子たちを「こういう時には、いささかなりとも働いてこそ、生きている申し訳が立つようなものだ」と叱りつけたそうです。被災者とともに東京で復興支援をすることを伝えました。
大混乱の中ですが、栄一翁は「被災者の救済と心の安静のために何をすべきか」「東京をどのような都市に復興させるか」「民間人はなにをするべきか」などの復興への確かなビジョンと課題を思い描いていました。1つ1つのエピソードを紹介していては、とても紙面が足りませんので、主なものを下記に紹介します。
・埼玉県からコメを取り寄せ、栄一翁の私邸を滝野川食糧配給本部として開設
・東京商業会議所に大震災善後会を設置し、民間による救援活動の拠点をつくる
・アメリカの実業家を中心とした人脈を活用しての、義援金集めをする
※1906(明治39)年のサンフランシスコ大地震の際に、栄一翁が先頭に立って義援金を集め、世界中で最も多額の義援金を日本から米国へ送っていました。そうした交流を重ねていた結果、予想をはるかに上回る巨額の義援金や大量の救援物資が届けられました。栄一翁たちが対米民間経済外交を大切にしていたからです。
・東京を経済の中心としての商業機能を重視した、都市に再生する復興都市計画の作成
・被災した各所を慰問し、どんな物やどんな支援が必要か直接聞き取りをする
人々が平和な生活を取り戻すためには、「物質の復興」の根底にある「精神の復興」が不可欠であると栄一翁は考えていました。幼少期から論語を人生の指針としてきた栄一翁は、「道徳経済合一説」や「論語と算盤」の精神を唱えています。急速な近代化と第一次世界大戦中による好景気により、仁義道徳がすたれたと感じていました。
栄一翁は関東大震災を天が譴わした罰ととらえ、危機を克服するための精神論を説きました。震災復興の長期的な目標は、徳のある社会を作り出すことであり、物質と精神の復興がなされてこそ、人々が安心して日常生活を送ることのできる社会になると考えました。
9月1日まで、深谷市役所の1Fにてパネル展示をおこなっています。
ぜひ、見に行ってみてください。とても読み応えのあるパネルが掲示されています。